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表 紙 >思い出の部屋>長浜の話>その3
長浜の話(その3)
ライバル
ディンギーに乗りませんか!?
テーザー
クルーは女の子でなけりゃ
長浜ミッドウィンター2002
公式戦復帰 リゲインまでの道
往復1200km 北信越選手権 in 三国
ホッパー東日本選手権
それぞれの関東選手権
遠征大魔王コンビ
いつでも夢を
ショーイチロー
長浜で過ごした2002年
長浜の話の前に
僕はいつからリゲインに
冷静まじめな越後谷師
泣く子も黙る雄二郎
その1
その2
その4


筆者:リゲイン室松
最終書き込み:2003/7/13
リゲイン航海日誌
ライバル
当時を思い出して僕がレース毎意識していた相手は特にいない。同じようなタイプがいなかったせいかも知れない、強風だと結構前を走るが軽風以下ではいつも後ろを走っていたので毎回違う顔ぶれを見ていたような気がする。

河和の全日本の時、なんだか中学生みたいな子がフリーで競り合ってきた、「なんだ中学生じゃんか、おさえたろ」と思ったが抜かれてしまった。

野上 啓子だった。

長浜フリートでは納富さんとよく競った記憶がある。全盛期の長浜フリートは練習でも必ず10艇以上が練習していた。常に意識して目標にしていたのは桑原さんだった。

これが当時の新撰組名簿である。

保住選手/桑原選手/狼谷選手/工藤選手/相庭選手/斎藤(隆)選手/佐々木選手/納富選手/鈴木選手/石井選手/嘉山選手/城内選手/田中選手/内藤選手/多賀選手/斎藤(ま)選手/室松選手 等々である。

また笠島フリートとも仲が良く、二井選手/水上選手/坂井選手/吉中選手/中島選手等が良く長浜海域に練習に来てレースをした。

現在でもバリ現役は二井選手と吉中選手、そしてラジアルで活躍している納富選手、そして田中GGMである。桑原さんも公式レースには出ていないが体を鍛えるのが趣味なのでいつでも復帰できる、僕は密かにこのライバルを公式戦に復帰させようと企んでいる。


韓国遠征の空港にて、この人に1位を持っていかれたが当時はこの人に真剣に勝とうと思って韓国まで連れていった。
2002/10/08(Tue) 00:07
ディンギーに乗りませんか!?
大きな転機がやってきたのは昨年の夏であった、米国IT企業で働いていた自分は本社の業績悪化に見切りをつけて会社を辞めた。ここで2ヶ月間じっくりと仕事、生活を見直す時間ができた、僕はまず心と体の贅肉を落とすべく激しいトレーニングをした、真夏だったのでみるみる効果が現れて筋肉もついてきた。もう一回ディンギ-にでも乗ってみるか。。。と思い始めたのと時期を同じくして私が住む葉山に秋谷から中尾さんが越してきてセーリングカレッジをOPENした。僕たちは元レーザー仲間ということもありすぐに仲良くなり、またディンギ-への第一歩を踏み出すことになった。

今は朝起きてから、30分以内にはセーリングを開始できる環境に恵まれている、中尾さんとめぐり合ったタイミングも絶妙であった。


レーザー界から遠ざかっていた自分は彼が全日本優勝、レーザー欧州選手権 準優勝などの輝かしい戦歴があることを知らなかった。彼の名前は知っていたがそれは彼がレーザー業界にデビューした当時の事、私はミッドウィンターを境に比較的上が見えていた時期であった。
ある笑い話を思い出す。

強風の逗子海岸、セーリングから戻って休憩中のホッパーセーラーに逗葉の高沢 孝吉選手が「今日はどうですか?」と尋ねた。ホッパーセーラーは高沢選手に「ブローがきついから自信が無いなら出ないほうがいいぜ!」・・・知らないとは恐いことである。
2002/10/08(Tue) 00:21
テーザー
大きいクルーザーに乗っていたのはシーボニア、長浜のすぐ沖である。でもデッキから見下ろす海と海面スレスレで見る海はまったく異なることは自分が一番良く知っていた。当初ディンギーをやるにあたっていくつかの決め事をした、Internationalクラスであること。活動が活発であること。レース艇として十分に速いこと。

そして僕のめがねに適った艇はTasarだった、TasarならPSJ扱いだしフリート活動も活発。その上 艤装はシンプルでデザインも気に入った。元レーザー乗りでテーザーに転向しMr.Tasarでもあったコンパスポイントの小沢さんを訪ね、彼の艇を安く売ってもらい僕のディンギーー復帰の第一歩が踏み出された。

この時点で後にレーザーに転向せざるを得ない重要な課題があった。僕には気の合うクルーがいなかった・・・・

それでもすぐに見つかるさ と気軽に考えてとりあえずこの艇に結構なお金をつぎ込んでいくのであった。
2002/10/09(Wed) 19:37
クルーは女の子でなけりゃ
テーザーでの活動も毎回クルーが異なり。学連のスナイパーに乗ってもらったりもしたが年齢が離れすぎていてお互いに気をつかい疲れてしまった。

テーザーの選手権にも3回ほど出たがまともに練習していないのでボロボロの成績であった。僕はクルーを固定すべく活動はしていた。クルーは女性が良いと考えていた、テーザーには女性クルーも多かったしせっかくディンギーをやるのであれば女の子と組んで楽しくやりたい。

そんなうわついた精神で初心者の女の子をレーザーで鍛えてクルーにしようと試みていたが彼女の価値観はヨットレース向きではなかったようだ、所詮普通の女の子の場合、ヨットは夏場に2回程度乗れば満足なのである。

一年中乗っている女性セーラーの皆さんには失礼だが、あなた達は異常なのである。

中尾さんが見かねて「レーザー買わない?」と。。。
「今さらレーザー・・・か」と迷いつつも気がついた時には買っていた。15年ものブランクを埋められるのであろうかという不安を胸に長浜ミッドウィンターにエントリーしたのであった。
2002/10/10(Thu) 09:11
長浜ミッドウィンター2002
それは2月のこと、ついに私はミッドウィンターにエントリーしたがこの時点ではまだ中尾氏のレーザ−は私の所有にはなっていなかったのでセールだけ借りて、艇は長浜Fで斎藤まさんが手配してくれていた。

私は真剣だった、準備は万全、前の晩は天気図をチェックし、シュミレーションをして昔のように作戦ノートを書いた。しかし、15年もこういった活動から遠ざかっていたので不安だらけ。前の日は艇速に自信がないので中尾さんにパートナーをお願いしてスピードトレーニングを行った。

草レースといってはいるが自分はレーザーに乗ったことすらこの15年間無いのである。

レース当日は微風だった、昔一番苦手だった風、しかしこの日は違っていた、セーリングしていること自体を楽しんでいたので昔のようにカリカリすることもなく第一レースは上位につけた。最終下を回る段階では6位くらいだったが上り角度とスピードが良く、一気に抜いて3位にあがった、この時フィニッシュラインで激しいバトルをした選手が越後谷氏だった。

第二レースは長浜を遠ざかったのでセオリーを忘れ、南の順風にも関わらず右海面一杯に突っ込んで即死。大きく順位を落としてしまった。結果は思いのほかスコアが乱れたので3‐8で11ポイントの私は5位以下だと思っていたが3位と同点だった。しかし最終レース上位を走った逗子の中間選手に3位をゆずり4位に収まった。

順位は決して満足のゆくものではなかったがまるい食堂での宴会、桑原さんや斎藤さんや鈴木さん、田中GGMとの再会、改行さんをはじめとする皆さんとの新たな出会いに大いに満足し、その日は酔いすぎて記憶を失った。

※戦略ノート、本人が見ても意味不明な事がいっぱい書いてある
2002/10/10(Thu) 22:16
公式戦復帰 リゲインまでの道
だんだん人間欲が出てくる、特にレーサーの血は一度火をつけたら全焼するまで燃えてしまう。最初は週末の楽しみ程度に地元の森戸でセーリングするにとどめるつもりだった。

しかし公式選手権にまた出たくなってしまった。それはもはやレーザーセーラーの性であった。丁度タイミング良く、稲毛で東京湾選手権が開催される、稲毛であれば遠征も楽だし一日のレースだから苦ではない。思い切ってエントリした。

当日はあいにくの雨模様。参加艇26艇と少しさみしいがでも緊迫した空気は懐かしい、ここはテーザーの活動も活発でこのレースはテーザーのメンバーが運営を手伝っていたので皆顔見知りだった。

出艇するときまたも運命の人がスロープで船台を抜くのを手伝った、比較的年配で渋い黒のウェットに桜印のオレンジのライジャケ、19/55と書いてある。私は年寄りの冷や水でこのオジサンも頑張っているんだなと思い、この人には負けないようにしなくちゃと思っていた。
知らないとは恐いことである。

レースは稲毛独特のシフティな風に惑わされまったく良いところが無かったシングルは1レースのみ、あとは常に真ん中から後ろで結果は13位に終った。最低でもシングルと思っていたので少しショックだった、しかもあのオレンジライジャケの人にも負けた。

それからというものどこのレースに遠征してもこのオレンジのライジャケを見ることになるとはこの時点では想像だにしていなかった。
2002/10/10(Thu) 22:43
往復1200km 北信越選手権 in 三国
公式戦で納得のいく成績を取れなかった自分はフラストレーションがたまりなんとかしたいと思い始めた、当面大きい大会がなかったレーザーは北信越選手権に目をつけた、昔も参加したことのないエリアだったし、東尋坊下の海面というのも興味があった。

艇はチャーターしていたので比較的飛ばしたせいもあり片道約600kmもそんなに苦ではなかった。

レセプションは手製の鍋を囲み和気あいあいと談笑。地酒なども振舞われさすがに福井だなあと感慨ひとしお。。

レース海面は二日間 微風かつ潮が強く 振れの多い難しいコンディションだった。安定して4位〜6位の間を走ったが、総合では上位の選手がほとんどスコアを乱さず安定していたので6位で終ってしまった。

しかしこの結果で現役でも練習をすればまだ通用するという実感を得た、問題は若手の速い選手が出てくるメジャー選手権だった。


第4レース 一上を2位で回航してトップ艇を追うところ
2002/10/10(Thu) 23:19
ホッパー東日本選手権
ホッパーのレースにも参加していた、理由は単純で材木座の活動が活発だったので昔の感覚を取り戻す為には一回でも多くの実戦のスタートをしたかった。湘南チャンピオンシリーズにも何回かエントリーした、そこでどうせならちゃんとした選手権にも出ようと考えて東日本選手権にエントリーすることにした。

この大会、宮城県名取市の閖上での開催、国体会場であった。遠征にあたり宮城県連に協力をして頂いて新艇に近い艇をチャーターできた。県連の女の子が「この艇あたしが乗るのでぶつけないでね!」と念押しに来て可愛かった。

エントリーはSRに比較してスタンダードは少なく26艇だった。大会は初日から微風、この大会をリードしたのは神奈川の小澤と宮城の大久保選手。その他は激戦で初日、4位をとったレース以外は最低の成績で10位とまったくさえなかった。

しかしレースで海面にいるということは何と素晴らしいことだろう、僕はそんなに自分が好きではないがヨットでレース海面にいる自分は好きである。

結局レースの結果はパッとしない成績で終ってしまったが、宮城県連の小野寺君と一緒に帰ってくる車の中でも熱くレースを語りあった。

何よりも嬉しかったのはインターネットで長浜の仲間が皆この大会を気にかけていてくれたことであった。本当は上位に入賞して仲間にも自慢をしたかったがこのような仲間がいるだけでも自分は満足だった。
2002/10/12(Sat) 00:16
それぞれの関東選手権
関東選手権が江ノ島で開催されると知り、エントリーしたくなった、メジャーな選手権、おそらく旬の若い選手が出てくる、どのくらい速いのか見てみたい。そんな気持ちと自分がどこまでできるのか試す良い機会だとも思っていたが−ああああ!なんとど・・ど強風。ちょっと待ってくれと言いたくなるほどの強風、初日は最大で18m吹いた、江ノ島のC海面だったと思うが、大きなうねりに加えて南の強風でフリーは恐怖だった。とにかく体重が落ちて筋力も衰えてしまっていてヒールを殺せない、完全にオーバーヒールして失速して前に進まない状態、最初の2レースはトップを走る、飯島、永井ははるか先、強風に自信があって比較的前を走っていた頃とは景色が違う。
それでもサバイバルコンディションになった第3レースはリタイアが続出したため姑息に生き残り順位は21位につけていた、実走が49艇なので全然自慢にならない。

翌日風が落ちた「やったぜ・・」と思った。この軽風で振れる一番得意なコンディション。スタートから榮楽選手2艇だけと右海面を延ばし、右に振れた風をうまくつかみトップグループで上〜サイド〜下をまわる、、上に向かう頃に風がさらに落ちて風向も大きく変わった、これはノーレースか・・と思っていたが運良くコース短縮で上でフィニッシュとなった、このアプローチでダントツは榮楽選手、自分は2番手のポジションに居た、飯島と永井がはるか下、バッキ−がすぐ下にいたがこっちがブローを先につかみ前に出ていた、リゲイン勝利を確信した、ふ・ふ・ふ・・・

長浜のメンバーに永井ひさき、飯島よーいち、バッキ−に勝ったコメントを考えていたがそのままフィニッシュできないところが私だ。。フィニッシュライン前あたりで風が下振れして飯島、永井が伸びてきた、 バッキ−とも並んだ、この4艇がほぼ同時に流れ込んだが読まれたのは飯島、永井、バッキ−、リゲインの順で5位に終わった。このままレースが終れば15位だったがそうはいかない、また風が南に振れきって風速も8m以上になり波も大きくなった、次のレースはまたしても失速しながら悪いポジションを走り、順位は結局20位でこの大会を終えた。

課題の多い大会だった、10m位までの風で失速しないで走りたい、そうでなければメジャーな大会なんて出る意味はない。この時点では全日本への参加など全然考えていなかった。


昔は82kgに7kgのウェイトだったので89kg、見た目はデブで格好悪かった、最近は見た目は痩せたのだが中身がからっぽ・・・
2002/10/16(Wed) 23:39
遠征大魔王コンビ
2月からディンギ−に復帰した。長浜ミッドウィンターがデビューだった。ここで4位をとり悪い気はしなかったが自分の実力が15年のブランクでどのあたりなのか確認したくて、関東選手権やホッパーの選手権に出て確かめようとしたが成績は冴えなかった。自信をなくしてしまいたくはない、もう年なのだからと諦めたくたくない、そこで狂ったようにレースに出まくった、草レースからオープンレースから公式選手権とにかく4月から8月までは毎週がレースだった。

そしてある事実に気がついた、遠征先で必ずオレンジのライジャケと出会う。東京湾選手権(稲毛)、ホッパー東日本選手権(宮城)、
関東選手権(江ノ島)、湘南レガッタ(材木座)湘南マスターズ(材木座)犬若オープン(銚子)、ホッパー関東選手権(館山)。

お互いまたかよ・・というような表情で挨拶を交わすのであった。
2002/10/18(Fri) 00:00
いつでも夢を
月まで色々なレースに出てだいぶ勘も戻ってきていた。一番問題だったのはスタート感覚であった。昔はスタートだけは悪くはなかった。スタートはディンギ-レースの全てが集約された瞬間である。しかし100艇を超える大フリートでのスタートは普通と異なる。そんなレースにまた出てみたい。そのレースはレーザーでは全日本以外には考えられなかった。北信越選手権で中野てつおさんが今年の全日本は芦屋でんねん、と宣伝していたがその時点では自分にはまったく関係のない事だと思っていた。

しかし関東選手権で悔しい思いをした自分は毎週狂ったように海に出ていた、朝の5時には起きて犬の散歩をして海面をチェックして30分後には艤装を開始していた。
そして夕暮れまで昼も食べずに練習をしていた、何よりもレーザーに乗っていることが嬉しかったこともある。

全日本が近づくにつれ、ある思いがこみあげてきていた。まだ現役でやれるかも知れない・・それは成績ではなく全日本という大会に全精力を注ぐだけの体力と精神力があるかも知れないということであった。

体も心を反映して大学時代と同じ体重まで絞れてきていた、もともとサッカー選手だったので痩せていたわけではない。

あとは仕事の問題だった。この不景気なご時世にヨットレースで1週間休みたい?? 「君!短い間だったけどまた何か縁があったらな」などという社長のセリフが容易に想像できた、幸い私の上司は社長だけなので彼をいかに説得するかということに夏前の一ヶ月は精を出した。
頼まれもしないのに色々とお役立ち情報を提供し、映画の券が余ったと嘘をついて子供たちにあげたり。。。。

そして飲みに行った時決行・・・

リゲイン「実は重要なイベントがありまして」
社長「ほー!離婚でもするのかね?」
リゲイン「いえ、私ある世界で頂点を狙おうと思っていまして」
社長「君、何かやってたっけ?」
リゲイン「ハイ、ヨットをやってます、あのア・メ・リ・カ・ズ・カップで有名なヨットです!!」←先制の背負い投げ 
社長「・・・・それで?」
リゲイン「ちょっとした大会がありまして、ヨット連盟からも是非参加して欲しいと頼まれまして」
社長「仕事もそのくらい凄いといいねえ」←出足払い 有効!
リゲイン「・・・・駄目ですか?」
社長「まあ有給は君のものだから仕事に影響がなければいいよ」
リゲイン「それは問題ありません!」

そして1週間の休みであることを極秘にしたまま、前日に1週間の休暇届を提出して逃げるように帰宅してそのまま芦屋に向けて車を走らせたのである。

そして始まった4日間11レース、連日順風で一日3レースが消化され予選から決勝までを休みなく戦った。成績は最悪だった・・しかしすごく清清しい気分で芦屋を後にすることができた。全日本という舞台での緊迫したレース展開。11レースを終えた段階でまだ4レースくらいやりたいと思っていた。自分は完全に現役としてこの場所にいる、そう思えた瞬間であった。

今年は15年ぶりにレーザーに復帰した最初の年。結果は来年以降に残せば良い、このような大会で集中力と気力を最後まで持続できたことはおおいに満足のいく結果であった。

問題は来年どのような嘘をついて休暇をとるかである。
芦屋は連日の猛暑だった、サングラスの跡で白黒パンダになって出社したりゲインは女性陣の歓声と社長のあきれ果てた顔に迎えられた。
2002/11/13(Wed) 22:14
ショーイチロー
彼はメジャーのイチローと同じで苗字がない。

実は小野寺という名前があるが、ショーイチローで通っている、SailFastの石橋・後藤君とも同じ宮城県連で仲良しである、SailFASTに出てくる正ちゃんとは彼のことである、最初に葉山で会った時は細い体でまさかシングルハンダーだとは思っていなかった。

今はホッパーを主に活動をしているが最近ではレーザーのレースにも出始めた。長浜のレースにも今週末初デビューの予定である。超強風で競ったことはないが軽風から順風ではメチャクチャ速い、また彼が沈しているところは見たことがない。

気が合うので彼が470を買ったら一緒に乗ってみたい。江ノ島の武藤さんともスナイプでコンビを組もうかという話があり最近は楽しいリゲインである。
2002/11/15(Fri) 21:48
長浜で過ごした2002年
002年ももうすぐ終ろうとしている、今年最後の長浜・三戸浜杯も先週で終った。今年からレーザーに復帰して初めて参加した2月の長浜ミッドウィンターから数えて6回もこの海でレースをしていた。

ほぼ一ヶ月おきに長浜に来ていたことになる。同時にレーザー、ホッパー、テーザーの公式レースにも出ていたので本当にヨット馬鹿な一年を過ごしてきたわけだ。

しかし長浜でのレースが一番僕にとっては大切なレースだった、15年前にこの海でワールドを目指しキチガイのように練習していた自分がまたこの海に23歳のトップを目指すセーラーを引き連れて戻ってきたのである。

長浜の海域は難しい、潮と風の振れすべてのコンディションを正確に把握することは困難である、だからこそ面白いこれからも若手のトップをどんどんこの海域に引き込もうと企んでいる、最近良くうちのクラブにヨーイチ選手が顔を出す。

今度のレースに誘ってみようと思っている、彼も陸上では礼儀正しい気持ちのいい青年である。やがてこのレガッタがGGMが予想さえしかかったような大イベントになるように僕は僕の海域のセーラーを勧誘しようと考えている。これが僕の長浜フリートへの恩返しだと思っている。

今年の長浜レースは運営をお手伝いしなかったので皆勤賞だった、来年は一回はお手伝いしようと思っている。

【2002年のリゲイン】

長浜ミッドウィンター  4位 29艇 長浜フリート
第20回長浜・三戸浜杯  4位 31艇 オーシャンビュー 
第21回長浜・三戸浜杯  5位 33艇 サーフサイド
第22回長浜・三戸浜杯  3位 36艇 長浜フリート
第23回長浜・三戸浜杯  2位?24艇 スクリューマリン
第24回長浜・三戸浜杯  4位 23艇 ファーイースト
2002/11/21(Thu) 20:45
長浜の話の前に
なぜ、和田長浜海岸と長ったらしい名前でいうのだろう。単に長浜海岸だけでもいいんじゃないかと思っていたが、この三浦市初声町和田の地は、鎌倉時代の御家人であったあの有名な和田義盛の故郷であったらしい。

和田長浜海岸入口の近くに「和田義盛旧里塚」というのがあり、更に和田長浜海岸に向かって行くと左手に「県立少年自然の家」が現れるが、和田城は、この付近の右手にあったらしい。

和田城について
和田小太郎義盛は16才の秋、父杉本義宗の死がきっかけで、鎌倉杉本城から和田に移り、現在の三浦市初声町和田の地に、義盛の居館があった。

義盛が和田ノ里に館をおいたのは、その頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたことがあった。義盛は和田を終生の根拠地と定め合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食糧が戦陣に送られるなど重要な役割を果たしていたという。

現在和田館はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇、唐池(空池)出口、赤羽根、矢作などの地名が残っていて往時をしのぶことができる。また和田館には木曾義仲の妾巴御前が義盛に預けられ、ここで余生を送ったといわれている。

鎌倉時代を生きた三浦水軍、その強さ故危険な存在として北条氏に攻め滅ぼされたが長浜にはそんな三浦水軍の英霊達の魂が宿っているのである。長浜フリートは三浦水軍の末裔なのである。
2002/11/25(Mon) 21:52
僕はいつからリゲインに
過去の掲示板を見ると7月24日までは本名でした、そして7月28日にはリゲインを名乗っています。それにはこの書き込みがきっかけになっています。

24時間タタカエマスカ
むろまつの兄さん!あなたクルザーのレース出た翌日は銚子へ
カートップかいな?!!TODAの兄貴も銚子でしょう!!
いったい全体、今年になって室松さんは何回レースにでたんかいな!? TODAさんもも!?レースに行くといつもこの2人がいる。すごい体力。

そしてこのカキコに対して
改行氏のタイトル気に入りました、いただきです♪ 

言われて見て気になり、記憶をたどりました。こんだけ出ました!


三戸浜・長浜ミッドウィンター 
テーザーミッドウィンターレガッタ 
材木座スプリングレガッタ 
湘南チャンピオンシリーズ第一戦 
レーザー東京湾選手権 ★レーザー復帰 T田さん遭遇
テーザースプリングレガッタ T田さん遭遇
レーザー北信越選手権 
第20回三戸浜・長浜杯 
シーホッパー東日本選手権 T田さん遭遇
レーザー関東選手権 T田さん遭遇
神奈川県民セーリング大会 
第21回三戸浜・長浜杯
森戸JUNEオープンレース
レーザー湘南カップ  T田さん遭遇
相模湾オープンレース(ビッグアップル3 ハリヤードピット)
犬若オープンヨットレース T田さん遭遇

テーザーからレーザーに変えたのが5月、それから約3ヶ月間で結構出てますねえ♪

ちなみに今後もレースは続く、、

湘南マスターズ
トーキョーズカップ大島(プラトー)
レーザー全日本選手権
レーザー全日本マスターズ選手権
レーザーワールドマスターズ(お金があればね)
シーホッパー関東選手権
ジャパンカップ(ビッグアップル)


そして私はリゲインになりました。。
2002/11/25(Mon) 22:19
冷静まじめな越後谷師
その人はちりめん問屋の主人だった。でも越後屋ではない。越後谷である。

このペンネームはよく掲示板で見かけた、なかなか面白い文章を書く人だなと思っていた、そして長浜ミッドウィンターの第一レース私はこの人とは知らずフィニッシュラインで激しい押さえあいをした。
まるい食堂で行われたパーティ、何年ぶりかに会う桑原さん、GGMとの再会に感激していたリゲインの横にこのちりめん問屋はふぉっふぉっふぉと座って静かに飲み始めた。

このレース二人とも初参加であった、気がつくと年末まで必ずこの黄門様は長浜のレースに参加していた。

しばらくしてから彼が全日本マスターズやラジアルのチャンピオンであることを知り驚いた。
2002/11/27(Wed) 13:32
泣く子も黙る雄二郎
それは18年以上前のこと長浜界隈のホッパーセーラーは彼を尊敬していた、当時の私もその一人であった。

今ではリゲインも彼の前を走ることができるようになったが、当時は彼を抜くどころか視界にとらえることすら困難な状態、常にオープンレースに出てきた彼はダントツだった。

当時のレースシーンにおいてレーザーセーラーに勝つ。。。それは尋常なことではなかった、見知らぬレーザーセーラーにラフィング攻撃を一回だけした、そのことだけで自慢話になった、そのレーザーセーラーは軽く攻撃をかわし遥か前方を走っていたにも関わらず、一回でも攻撃すれば上出来だった。

それでも攻撃できる距離にいるレーザーは数艇しかいなかった、おそらく長浜所属の戦士達は遥か前を走っていたに違いない。

雄二郎は笠島フリートにいた、二井さんや水上、中島、坂井といった連中もいて彼等も速かった。

長浜レースでダントツでトップを走ったかと思うとこけてみたり最近はよく分からないがとにかく実力は計り知れないセーラーである。

(写真の右側が雄二郎、左側のオレンジライフジャケットはT田さん)
2002/11/27(Wed) 13:49
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