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表 紙 >思い出の部屋>長浜の話>その1
長浜の話(その1)
波打ち際で遊んでいても速くはならないぜ
潮美亭
ヨット遊び
マイヨット
合宿
怪男児 MR SHIONOYA
草レース
長浜一望
サッカーこそ男のスポーツ
ホッパー1
レーザーフリート入門
選ばれし者の丘
15年前の鉄人
初めての遠征
関東選手権
ミッドウィンターin 津 1986
太平洋選手権 in Japan 津 1986
その2
その3
その4


筆者:リゲイン室松
最終書き込み:2003/7/13
リゲイン航海日誌
波打ち際で遊んでいても速くはならないぜ
レーザーフリート 人は彼等をそう呼んでいた。うぅぅなんて格好いい響きなんだろ、当時長浜の名物食堂であった潮美亭で食事をしながら順風程度のセーリングで興奮して自慢をしているホッパーセーラーに、静かにカツ丼を食い終えたレーザーセーラーは言った、「波うち際で遊んでいても速くはならないぜ!」「おおお!なんて渋い台詞、兄貴!」
そうその人の名は狼谷の兄貴だった。

多くの友達の忠告を振り切りニュー長浜のレーザーフリートの門を叩いたのはその数週間後であった。
2002/09/06(Fri) 09:15
潮美亭
今はもうないが浜の右側の小高い丘にその店はあった、長浜で唯一の食堂だった。ここの出し物といえばラーメンとカツ丼、親子丼くらいだったが店ではお菓子なんかも売っていたので長浜でセーリングをした経験があれば一度は立ち寄ったことがあるはず。ここの店のおばさんは体格のい、肝っ玉かあさんみたいな人でとにかく口が悪かった。

黙っていたら圧倒されてしまう、三浦の漁師の家に育ったので漁師訛りがあった、しばらく東京もんとして相手にされていなかったが毎週のように通い、庭先をキャンプ上として提供してもらい、ぼくらは毎週末、友達を集めてこの食堂の庭先でキャンプしてセーリングを始めた。今から20年以上前の話である、残念なことにここのおばさんは数年前、蜘蛛膜下出血で突然亡くなってしまった。僕にとっては第二の母であった。
2002/09/06(Fri) 09:27
ヨット遊び
当時の僕たちのセーリングはまさにこんな言葉がぴったりだった。それぞれ適当なヨットにのり、自由に走りまわり競争には興味がなかった。まさに軟弱を絵で書いたようなヨットスタイルだが当時はこれが楽しかった。ヨットはどこでもできたはずだがこの浜がえらく気に入っていた、それは潮美亭をはじめとして地元の人達が親切にしてくれたことも大きな理由である。当時の初心者セーラーの私がそこにいた。ヤマハのライジャケが最高に格好いいと信じていた。そして当時はこの黄色のピーターストームのオイルスキンと首にぶら下げたシャックルキーがヨットマンの証であった。エーグルのブーツはまだ高価で手が出なかった。
2002/09/06(Fri) 09:37
マイヨット
長浜でのセーリングは最初は皆で共有していたホッパーやシカーラ、そしてシーマーチンに交代で乗るといったスタイルだった。シーマーチンは仲間の女の子が買ったものだが彼女たちは当初、レーザーが欲しくてPSJに行った、すると口ヒゲのオジサンが出てきて、「君たち体重何キロ」「えーと、●●kgです!」「そんなに軽いんだ」「えへへ、いやあそんなに痩せているわけじゃないんですけどお」「この船は売れないからもっと太ってからまた来てよ」「何よ!あのくそオヤジ!!」みたいな会話があり売ってもらえなかった彼女たちは仕方なくヤマハに行き、誉め殺しにあいシーマーチンを買ったらしい。僕はといえば沈ばかりしていてもっと練習がしたかったので密かにホッパーの中古を探し中古で買った、そのセールナンバーは今でも私の銀行の暗証番号に使っている、したがって公開できない。
2002/09/06(Fri) 12:36
合宿
夏休み、連休みなど暇さえあれば長浜に通った、潮美亭前のキャンプも雨の日などは大変、そこでおばさんが一部屋貸してくれることになり20人で家賃を払って離れの部屋を借りてそこで皆で泊まり込みで合宿をした。ここでの宴会はちょっとした楽しみだった。やがてこの部屋はギソウ品で埋め尽くされていった。
2002/09/06(Fri) 12:39
怪男児 MR SHIONOYA
僕らが長浜に来た、ちょうど同じ時期にヨット旋風に乗ってこの浜に乗り込んできたのがリプルセーリングクラブのオーナー、塩野谷氏だ。彼の逸話は数知れないが当時のリプルはメンバーも多く、クラブハウスはいつも大勢の人で賑わっていた。

リプルカップというレースも定期的に行われていた。いつもコミッティーを務めていたのは舵の執筆では今や有名人、高槻君だった。彼はスーパーサンバード時代からクルーザーレーサーとしての輝かしいキャリアの持ち主であったが、お笑い芸人の方が向いているくらい気さくでいつも皆を大笑いさせていた。
そんな長浜も今は当時に比べると静かになってしまった。
2002/09/06(Fri) 12:51
草レース
当時スズキマリンはシーキャップというスループを販売していた。長浜でそのシーキャップカップが行われた、急遽オーナーに変わり、友達のクルーでレースにエントリーしてまぐれで優勝してしまった。

これで気を良くした二人は死ぬほど得意になって、潮美亭のまわりをトロフィを見せびらかしながら歩き回った。このレースがひょっとするとレースへの興味を持つきっかけになったかも知れない。当時はスズキの他にも関東自工もシードスポーツやウィンドコールといった艇を出していた。また西武マリンも長浜をベースにした「西武オープンヨットレース」を開催しており200艇を超えるエントリがあった。
浜を埋め尽くしたヨットの光景はちょっとしたものであった。
2002/09/06(Fri) 18:50
長浜一望
潮美亭の庭先から長浜を一望できた、ここからの景色が好きだった。写真は20年前の長浜と私である、当時はこのルッカのつなぎが格好いいと信じていた、思えばラッシュのような優れものの素材のない頃でトレーナーの上から着るこのようなスタイルが流行った、ホルトのつなぎも人気があった。ドライスーツの登場はこの数年後である。
今でもこの場所は長浜を見渡す絶好の場所である。
2002/09/06(Fri) 23:22
サッカーこそ男のスポーツ
良く長浜に行ったが心の底ではやはりサッカーこそ男のスポーツと思っていた。たまに風待ちのときなどは駐車場で一人でボールを蹴って遊んだが誰も相手にしてくれなかった。今は遠征には必ずサッカーボールを持って行く、全日本のときも壁に向かって蹴って遊んでいた。今は密かにキックボードを買おうと思っている、OPのレースで若くて格好いいお母さんが颯爽とキックボードでハーバーを横切っていったのを見て、「買うしかない」。。。あとはサッカーでリフティングをしていれば風待ちの退屈はしのげる。
2002/09/09(Mon) 17:14
ホッパー1
ホッパー2が登場するまでは当然だが皆この初期型に乗っていた。ホッパー2がレーザーを意識したのかデザイン的に角張ったのに対してこのホッパーは曲線が多く、僕的にはイタリア車のようで好きだった。当時のオリジナルのギソウはえらく御粗末でトラベラーやメインのブロックをハーケンに交換するのは大変な投資だった。この頃は自前のドーリーを持っている仲間は皆無で皆、5人位でホッパーを担いで丘の上の置き場から毎回上げ下ろしをした
2002/09/09(Mon) 17:21
レーザーフリート入門
当時はインターネットなんてないし、レーザーフリートの情報は会員以外の人間には皆無だった。舵なんて読んでも当然メンバー募集なんてしてないしレーザーの販売元 PSJだけが頼りだった。そこでPSJに電話して見ることにした、今では聞き覚えのある声の主は言った、「ああ、長浜ね、狼谷さんがキャプテンだよ、名前も恐いけど顔も恐いよ!」
電話番号を教えてもらい不安のピークに達しながら電話してみた。「あのお、フリートの練習に参加させて欲しいんですけど」「ああん?お前はよう、何乗ってんだ?」
「ホッパー??やめろやめろ!捨ててまいな!」圧倒されながらも話しは進み「お前もレーザー買うんだべ?」「はい、できるだけ早く!」「来週から来な!」

一週間後の昼過ぎフリートを訪ねた、サングラスの桑原さんがそこにいた、何も語らずニヤっと笑って、黙々と艤装をして海に出ていった。

「なんなんだ、あの筋肉は・・・ここは虎の穴かい。。。」

心の中を不安がよぎってゆく、ああやめておけば良かった。そこへ現れた納富さん「こんにちはあ!ニコニコ」「ああ良かった。普通の人もいるんだ」と思ったが後に彼も実は大魔人であることを知る。

ということでフリートメンバーになってしまった私はそれからすぐにレーザーを買い、レーザー長浜フリートでの活動を開始した。当時はまだヨットウェアも満足に揃っていなかったが硬派でなくてはならないと思い、アディダスのサッカー用のウィンドフレーカーでセーリングしていた。
2002/09/10(Tue) 15:08
選ばれし者の丘
僕たちはその場所をそう呼んでいた。何故かというと長浜一帯は長井という 部落である、そのあたりの長老が椅子を据えて夕刻になると海を眺めにくる。新米がその椅子に座るなど100万年はやい、しかし恐いもの知らずの僕たちはずうずうしくもここに座り長老に促されてそこをどくことが良くあった。写真の場所は長浜を一望する場所にある、一度散策して探してみると面白い。この場所のほかにもかなり大きな防空壕があり、そこは旧日本軍が基地として使っていた名残が残っている、その入り口も知る人ぞ知る場所にある。今は危険で入れないかも知れない。
2002/09/10(Tue) 17:17
15年前の鉄人
朝から夕暮れまで飯も食わずにセーリングをした。桑原さんとクローズで走り熱くなり、大網を越え城ケ島沖までタックキングマッチをしたことも良くあった。とにかくセーリングが好きだった。人生のうちで何回タックするのだろうとか良く考えたものだ。毎回練習では100本タック100本ジャイブをした。一年52周として土日でそれぞれ200本、従って10年で10万本近くタックするのだろうと勝手に思っていた。
人生ではヨット以外でも方向転換は起きうる、ワイルドジャイブでなければハッピーである。この頃の僕はヨットに夢中になりすぎて会社を辞めてしまった。少しワイルド気味だったがまだまだ若い責任の無い頃のことだった、強風のクローズがめっぽう速いがなぜか選手権ではボロボロの成績の鉄人がいた。この頃鉄人2号は小学校に通っていた頃かな?
2002/09/10(Tue) 17:26
初めての遠征
フリートに入り、しばらくが過ぎ遠征をすることになった。東京湾選手権(館山)であった。
初めてのレース、ドキドキして心臓が飛び出しそう、、段取りも良く分からない、「そうだ何はともあれ船の準備をしなくちゃ」と車の方を見るとレーザーが歩いてくる。???? 良く見ればレーザーを担いだ桑原さんがのしのしと歩いてくる。するとその後ろからまた一艇 誰だ???周囲から「林さんだ・・・・すげぇ!」「・・・・・・・・・」
「なんなんだこの人達は・・・・」

その日のレースは強風だった、何メートルだったかは記憶にない。ほとんどビリだった。。遥か前方を行くのは誰だろう。上下を走るトップ集団とすれ違った、凄い形相で競い合っていた3艇?は高沢 林 桑原選手だった。優勝したのは高沢選手だった、僕のとなりで1位のコメントをする高沢選手を眺めながら桑原さんがポツリとつぶやいた「お前は何とかする」「・・・・・どうしちゃうんですかあ??」

残念ながらこの当時は写真がほとんど残っていません。写真嫌いの私の欠点でした。
2002/09/10(Tue) 20:54
関東選手権
強風は自信がある、大西でサーファーが出ていてもレーザーで出ていく。強風なら15mまでならクローズも絶対自信がある。桑原さんと朝から夕暮れまでマッチレースもした。レースに出た、自信はあった、いきなり上マークでケースを起こした、相手は一柳選手だった、720°中に沈、起こしたらまた沈、霞ヶ浦の関東選手権だった。35位だった。落ち込んだ。当時高校生の佐々木がデビューしたレースだった、奴は10位だった。その後もずっとレースを続けたけれど上位に入ることすらなかなかできなかった。

レーザ−のレベルの高さを思い知らされ続けた。
2002/09/10(Tue) 20:57
ミッドウィンターin 津 1986
ある日突然それは来た、朝から強風、水温も低く身を切るような寒さ、鈴鹿降ろしが吹く津のミッドウィンター、参加艇は99艇、僕は一人でレースをしていた、まったく他の艇の動きには動じなかった、風の振れとコースだけを考えていた、気がつくと90艇以上の艇を抑えてフィニッシュしていた、そこには笑顔の桑原さんが待っていた。抑えた艇団には強敵がいっぱいいた。

当時はこのオレンジのカラーセールが気に入っていた、桑原さんが紫のカラーセールでレースでは結構目立ったがリコールを読んでくれといわんばかりのセールだ。。

帰途に着く車の窓から津のハーバーを眺め大きく深呼吸した、またここにPACIFIC選手権で戻ってくる。そう思うとワクワクした。

成績表はここです→http://smuromat.zero-yen.com/midwinter.htm
2002/09/10(Tue) 21:06
太平洋選手権 in Japan 津 1986
津のミッドウィンターでPACIFICにクオリファイされた、この大会は日本開催(津)でクオリファイされた選手の数も海外での大会よりは多かった、それでもメジャー選手権の上位選手がクオリファイされていたので皆僕よりは上手い選手ばかりだった。僕も津のミッドウィンターで9位に入りぎりぎりでクオリファイされた。この時の優勝はまだ童顔の脇永選手だった。高校生だったと記憶している。長浜でクオリファイされたのはこのレース5位だった桑原さんと僕であった。
選手権の順位は忘れてしまった、あまり良くなかったことは覚えているがとにかく一応国際レースなんだと感慨ひとしおだった。海外選手は30名くらいだったと思う、韓国の選手はインパクトが強かった、ソウルオリンピックを控えフィンの五輪強化選手が来ていた、彼等は軍人でヨットレースで良い成績を取ることに使命感を強く感じていてレース中は近づきたくない存在だった。その他NZから数名、AUSから数名、インド、マレーシア、シンガポール、中国、アメリカ等から数名の選手が参加していた。圧倒的に速かったのはAUSのジョン・コリンズ選手だった。彼はこの年のレーザーワールドで10位の実力の持ち主だった。NZの選手のフリーの速さにも圧倒された。
日本人で最高位は内藤幸一郎選手の7位だったと記憶している、この後はレーザーワールドを強く意識するがなかなかワールドの切符は手に入らなかった。翌年NZのPACIFICに協会推薦でクオリファイされたが体調を壊し、テイクオフすることができなかった。
2002/09/10(Tue) 21:22
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