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表 紙 >思い出の部屋>長浜の話>その4
長浜の話(その4)
私はかつてT田さんだった?
長浜のモスセーラー
幻の五輪セーラー
長浜電脳研究所 高槻所長
ウェーブパフォーマンス
パーフェクトストーム
1987年 Burnout 
改行法師
9806 難波君
リプルセーリングクラブ
ヨットレースと食事の考察
フリートレース 1987年
GGM現る
ヨットレースは楽しめるか?
16年の歳月を経て ミッドウイン...
ジュニアもバリ一軍か?
親子で戻った長浜・三戸浜
その1
その2
その3


筆者:リゲイン室松
最終書き込み:2003/7/13
リゲイン航海日誌
私はかつてT田さんだった?
ヨット関連の古い写真を整理したら変な写真が出てきた。よくよく見ると プ!と吹き出しそうな写真だった。それはかつて潮美亭界隈でセーリングをしていた当時の自分の写真であった。季節は秋頃であろうか?黒地に青のウェットスーツ。意味不明の毛糸の帽子。そして極めつけ桜印のオレンジのライジャケ。は!このスタイルはもしや。。。 私はどうやらT田さんより先にこのスタイルでセーリングしていたらしい、それともT田さんはこの写真よりも昔(20年くらい前)からあのスタイルなのであろうか? 謎である。。

投稿ナンバー92の『泣く子も黙る雄二郎』の写真で雄二郎に続いてマークを回航するT田さんの写真に注目してもらいたい。

この頃は金がなくこのウェットもサーフショップで中古で買ったもの
ライジャケは潮美亭の倉庫に捨ててあった奴を拾って使っていた、靴は当然ボロ運動靴である。毛糸の帽子も水をはじかず、濡れると頭にクラゲが乗っているようなシロモノだった。
2002/11/29(Fri) 13:33
長浜のモスセーラー
荒木裕実 JPN1230 グーフィー モス協会でも古株のセーラーである、最近モスのMLでこの名前を見かけて!?と感じたが忘れていた。

その彼に15年ぶりに会った、逗子マリーナレガッタのパーティ会場で僕の顔を見て、ニコニコ近づいてきて「長浜フリートの室松だろ?」
え?「俺だよ俺!荒木だよ」

よくよく見ればひげを取れば昔の彼だ。。この人男である。昔長浜のYSAのメンバーだった、ある日僕達は彼が見たこともない変てこなヨットに乗っているのを見た。

その艇は当時盛んになっていたモスだった。しかしなんであんなにバッタンバッタン沈するんだろう?その謎は今リゲインが経験している、体のバランスがわずかでも変わると艇はすぐに沈する。手をつく位置もセンチ単位で神経をつかう必要がある。

彼は今三浦モスで小倉さんと一緒にセーリングしている。強風でもモスに乗れるようになってきたリゲインはこのモスの強者たちと練習してモスでも全日本に出ようと企んでいる。来年は琵琶湖である。

※写真は本チャンのワールドセーラーで本物語のセーラーが来年後半に真似したいセーリングテクニックである。
2002/12/02(Mon) 12:24
幻の五輪セーラー
モスクワ五輪、日本はこの大会をボイコットした、多くの五輪選手が涙を飲んだ苦い記憶である。セーリング競技 ソリング級で代表の座を勝ち取った日高 茂樹選手達は不運の五輪選手となった。
その日高さんだが奥さんの日高律子さんは長浜のYSAのフリートキャプテンだった、彼女は当時シーラークに乗っていた。確か美人姉妹で妹さんはレーザー霞ケ浦フリートにいたはずであるが名前が思い出せない。当時は関口むつみ、高沢エッグ等とともにレーザー界の美形トリオだった。

律子さんもレーザーの大会には出ていたし、J24では神風のヘルムスで活躍していた、ミニトンの大会にも故 水上 せつ子さんと出ていた。

日高さんもたまに長浜に来てシーホッパーでレースに参加していた。僕が長浜フリートに入ってからしばらくしてYSAのレースに桑原さんと一緒に参加して、日高さんに勝ってしまった。あとで桑原さんをつかまえて「おい、いい新人が入ったな」 「え、そうですか下手すよ」今でも桑原さんはなかなか誉めてはくれない。

※ なんだかこの写真 指名手配の写真みたい、どこかの大学のHPからコーチとして載っていた写真を拝借しました 日高さん ゴメンナサイ!
2002/12/05(Thu) 18:37
長浜電脳研究所 高槻所長
前にもリプルの塩野谷さんを紹介した話でこの人を紹介した。長浜でリプルセーリングクラブが全盛期の頃、彼はリプルで働いていた。といっても本職はクルーザーのクルーとしての高い技量を買われ多くの第一線のレーサーに乗りながら合間を縫っての活動だったようだ。

彼はもう10数年も前から葉山に住んでいるので隣組の仲で10年以上年賀状の交換を続けている。長浜で活動している時の彼はよくリプルの和船でレースのコミッティをしている姿を見掛けた。ディンギーに乗っている姿を見た記憶はない。

1990年のケンウッドカップ、リゲインは「Ninja」チームのクルーとしてハワイに滞在していた。高槻君も「スター&スター」のチームマネージャー兼クルーでワイキキヨットクラブの同じピアに隣あわせで舫いをとっていた。

その後、彼はエスメラルダチームに入りケン・リード等と共に世界を転戦しながら、「舵」誌に高槻電脳研究所を連載する、ヨットに関する深い知識とハイテク機器の知識が豊富な彼はヨット界でも逸材といえる。

長浜は実に多くの人材を輩出している名門なのである。次は誰かな?

※高槻君 写真を会社からもらいました、気に入らなかったら言って下さいね!

氏のホームページ長浜の事も出てるぞ
http://showak.com/taka/top-cont.htm
2002/12/05(Thu) 19:00
ウェーブパフォーマンス
最近では見なくなったが当時の長浜の名物は大西の日の岸よりでのレーザーのウェーブパフォーマンスだった。

大波に巻かれる寸前で波を超え、沖まで出てからランニングで岸ギリギリまで大波に乗ってサーフィングしてジャイブを決めてからまた襲い掛かって来る大波をかわしながら沖まで出ていくといった事を繰り返した。大波に巻かれ真後ろに向かって波と一緒に数十メートル戻された事もある。

浜には出艇を断念したセーラー達のギャラリーができていて「おお!」とか「ああ!」とか歓声があがった。

このコンディションで出たのは長浜Fでも桑原、斎藤(隆)、リゲイン位しかいなかった。

こんな日が終った翌日にはPSJにトップマストの注文が入るのであった。当時のマストはすぐ曲がってしまった。リゲインもトップマストは何本も駄目にした、桑原さんも大波に巻かれ前方一回転をしてデスマストをしたことがある。
2002/12/05(Thu) 23:47
パーフェクトストーム
長浜海域でセーリングしていた頃、大西でも乗りこなしていて少し天狗になって海をなめた時代があった、その日は朝は風もそこそこで穏やかな一日だった。
大西の警報は出ていたが、西なら帰りが楽と逗子まで遠征にいくことにした。逗子沖では材木座と逗葉がフリートレースをしていたので途中から参加する、山形 弟が「どっから来たんだ?」「あっち」長浜方面を指差すと「・・・・・・」

レースが終わり帰る頃には風速は10mを越えていた、佐島沖に差し掛かった時には恐らく15mくらいまで上がってきていた。なんとか風を逃がしながらヨチヨチと走り荒崎をかわすがその時点で風は20mオーバーの風になっていた。海面から飛散する水飛沫が霧にようになり視界が殆どゼロに近い、風の音で何も聞こえない。

もはやシバーしているだけでも吹き倒される状態になった。長浜に戻るためにはこの風でベアしてランニング状態までもっていかなくてはならない・・・・危険すぎる。

そこで艇を沖まで出してから三戸浜の方向をコンパスで確認して艇を半沈させて流れていくことにした。<br><br>問題は定置網である、目をこらして周囲に網がないか見ながら流されていった。しばらくすると三戸浜が見えてきた。岸近くまで行けばセーリングできるかも知れない。このまま流されると黒崎の鼻の岩場に突っ込む危険があった。

三戸浜まで100m位まで来たところで艇を起してセーリングを試みた、しかし風速はさらに増していたのでまともに走ることができない。

とうとう艇から投げ出され、艇につかまろうとした瞬間に大きな波に
艇を持っていかれ、あっという間に艇から10m以上離れてしまった。

ワンピースのドライスーツを着ていたので浮力が邪魔をしてうまく泳げない、「まて、落ち着け・・・浜までは100m。波と風は浜に向かっている、このまま体力を使わずに波にまかせて行こう」 艇はすでに何十メートルも向こうを岸に向かって流れている「ラッキーだ あの方向なら三戸浜のど真ん中に打ち上げられるはずだ」。

幾分心にも余裕ができ、流れに身を任せ数十分後に僕は三戸浜に流れ着いた、三戸浜では沖から上を向いてラッコのように流れてくる僕を見ていて、すでに息絶えていると思ったらしい。

岸の近くで急に起き上がり歩き出すと駆け寄ってきた漁師達は驚いて
のけぞっていた。

艇は大きな破損はなく、トップマストが曲がった程度で済んだ。さて困った・・フリートではあの強風のなかベアポールしていった桑原さんが心配しているはず、潮美亭に電話しなければ。。しかしどこを探ってもお金がない、そこで漁師の家で電話を借りて無事であることを連絡する。

あとで潮美亭のおばさんに「心配させやがって、この大馬鹿が!!」と怒鳴られシュンとしたが暖かい汁を出してくれたおばさんは涙目だった。

それから海に出る時は必ず小銭を持っていくことにしている。
2002/12/06(Fri) 13:43
1987年 Burnout
1987年レーザーでの活動はあまりパッとしなかった。練習もあまり身が入らず目標を失いかけていた、燃え尽き症候群とやらか? 何でも適度ということを知らない自分は徹底的にやりすぎていた。ワールドには全然届かない、いつか行けるさと思いながら内心すごく焦っていた。

この年、ニュージーランドのタウポ湖でPACIFICが行われることになっていた。日本からは5人を派遣予定、目標が欲しかった僕は協会に相談した。協会の青木亨はしばらくしてから協会推薦選手として派遣メンバーに僕を入れてくれた。

それからPACIFICを目指し猛練習が続いた。しかしやりすぎた僕は出発直前に体調を崩しそのままレーザーを引退することになった。僕が辞退したので代わりに後にニッチャレで活躍した柄沢選手が代表としてニュージーランドに飛んだ。

いつでも夢をはこの苦い思い出に端を発している

沈艇に座る自分の写真は女人禁制の長浜Fから当時の彼女が撮った最後の写真である。
2002/12/11(Wed) 23:05
改行法師
長浜 恐らく二度とこの海でディンギ−に乗ることはないと思っていた、今年2月レーザーへの復帰を密かに心に誓ったリゲインはさっそくレースに出てみたかった、レーザーの乗り方は15年を経ていても体が覚えている、それくらいいつも心にレーザーを抱いていたし半端ないトレーニングが体にその感覚を埋め込んでいた。

まず練習よりは今の実力がどの程度かを知り、どのあたりから練習をすれば良いかの課題の洗い出しをしたかった。

レーザーの公式レースはさすがに気がひける、そこで眺めていた三戸浜長浜ディンギ−サイトにミッドウィンターレースの案内が出ていることに気づいた。今までは見るだけで書き込んだことがない掲示板。。ちょっと躊躇するものの恐る恐る書き込む。さっそく”改行男”なる人物から熱烈歓迎とのレスポンス。。しばらくすると掲示板を見ていた斎藤(ま)さんが懐かしさを訴えて自分の艇のチャーターを申し出てくれた。

まだ掲示版の主役たちはリゲインのことを知らない。レース当日長浜フリートに行く、懐かしい風景・・・15年前のフリートの光景が脳裏に浮かぶ。吹きさらしの小屋で着替え艤装して終るとどこかで拾ってきた風呂桶で体を洗い、艇を解装しながら一日のセーリングを省みた。
無駄なことは何もせず海と家を往復するだけの時代が何年も続いた、

あの頃はあれで良かったのかも知れないがマスターズのおっちゃんの楽しみを知った今となってはもう戻れない・・・あの時代の自分は排他的でレースに行ってもレセプションにも出ず一人で過ごしていた・・・今は何を置いても酒とレセプションが生きがいである。

しかしこのミッドウィンター、15年振りの長浜にいる自分はBack to the Future状態。。「おおGGMいつの間にあんなに白髪に」「桑原さん ちょっとふけたな」などと思いながら人見知りをしていた。

そしてレースが終ったあとのまるい食堂でのレセプション、桑原さんの前に座った僕はその昔共に練習に没頭した師匠との会話でだんだんと雰囲気になじんでいった。

そしてその頃には改行さんは酒が全身に行き渡り絶好調、改行節が出てまるい食堂をところ狭しと駆け回っていた。そしてとうとうリゲインの前にきて名文句を連発「お前! 生意気だあ!」「あのジャイブ・・・自分で上手いと思ってんだろ、、俺は国央にロールタックを教えたんだ!」「お前なあ!これから必ず下手になる、間違えない!」と言いたい放題言うだけ言ったら満足したのか?また別の誰かにからみにいった。

しかしこの人がこの長浜の地域の活性化に貢献していることはすぐに感じた。

レースの前日中尾さんと話していて

N「誰が出るんですか?」
リゲイン「なんか改行さんとかいう人がいろいろと世話してくれて」
N「改行?ああその人知ってる、確か津にいた人ですよ」
リゲイン「なんで改行なんですかね お坊さんなのかな 改行法師」
N「・・・・・」

この謎は北信越に遠征した時のレセプションでヨッシーなる人物が教えてくれた。

そのヨッシ−はほとんどレセプションを仕切って喋りまくっていた、各自の自己紹介が始まりリゲインが長浜から来ましたというとその男の目が””キラリ”と輝き周囲から「おお!という歓声があがった、あの改行氏のいる長浜ですか。。。」

そしてヨッシ−は機関銃のようにしゃべりだした「うちの改行が迷惑かけてんやろうなあ、、ほなアンさん 知ってまっか あの男なんで改行いうのか そりや なんたらかんたら・・・・・・・・・で改行なんですわ」

そしてこの浜を訪れる新人はこの洗礼を避けて通れない、今年最後のレースで初出場・初優勝したショーイチローがこの攻撃を受けないはずはなかった。470で世界の頂点を狙う若者は長浜では「お前必ず下手になるよ、間違いない!!」・・・・そうである。

※ミッドウィンターの写真ないのでMura氏HPから20回大会の写真
2002/12/14(Sat) 08:47
9806 難波君
そいつはいつも危ない奴だった。ホッパーに負けることは切腹を意味するレーザーフリートにとってホッパーで速い奴は目の上のたんこぶだ。セールナンバー9806、こいつはたまに先行して得意そうに後ろを振り向くのであった。「お前はいいだろう、俺はお前に負けたら当分フリートで口をきいてもらえなくなるんだ・・・・」とつぶやきながら、彼をしっかりとマークして彼のミスを待つのであった。

彼はその後ホッパー全日本でも活躍し国体選手にもなったと風の噂で聞いたがリゲインはその頃J24でワールドを目指していたので「あっそ」と聞き流してしまった、彼の名前も偶然最近の越後谷師の書き込みで見たYSA機関紙「テルテール」のバックナンバーで発見した。顔は忘れてしまったがあの9806は脳裏にしっかり刻まれている。

このテルテールには若し日の横森、笹谷、市川、大竹、難波の名前が刻まれている。
2002/12/21(Sat) 22:14
リプルセーリングクラブ
長浜にはいくつかのクラブがあった、リプル、FAREAST、YSA、それと潮美亭近くで大久保さんが運営していたクラブ(名前を忘れたけど長浜に早くからウィンドを持ち込んだ人のウィンドのクラブ)あとは、地元の嘉山さんに代表される民家の運営する置き場にそれぞれ艇を置いていた、特に私が親しく今でも交友がある塩野谷さんが運営している(今でも)リプルについてご紹介しましょう。

昔のリプルを知っている人が今のリプルを訪問したらちょっと驚くでしょう。今や収入源は釣り人の和船の保管がメイン業務、あとはたまにヨットスクール。。らしい。

塩野谷氏はもともと今は無きカザマスキーの生え抜き営業マンだった。何故ヨットに??彼の営業的な勘がこいつはいけると彼を動かしたのではないかとリゲインは思っている。

そもそも長浜に彼が来ること自体不思議な縁だった。彼と僕の友人が一級免許取得時の友達でその後、僕等が活動していた長浜に氏が来て「あれえ、塩野谷さん!!」ってことになったのです。

当時のクラブハウスは賑やかそのもの、会員サービスも行き届いていて皆仲が良く、まさにヨット同好会のような雰囲気のするクラブだった。そこに現れて皆を爆笑の渦に巻き込む高槻所長。。当時はシーファルコンとか(ヤマハがファイアボールを真似て作ったような幻の艇)やシカーラ、シーラーク、シーホッパー、ウィンドジョイ、シーラークなどなど、何故かレーザーは無かった。

あれは変人の乗る船と決め付けられていた(これ本当の話)
レーザ−は必ずフリートに入らなければ乗ってはいけない、入らずに乗っていると恐いお兄さん達が現れて連れ去られる(ほんまかいな)
本当にこんなことがまことしやかに語られていた、だからシングルに乗りたければ身の安全を考え皆ヤマハの艇に乗った。今から考えるとあの噂の発信元は・・・・すると当時マリン普及室にいたN野S子あたりが怪しい。。。「あんなの乗ったらあかん、おっかない兄さんに連れていかれてしまいますがな」

その本人も今やレーザ−界の中心人物だ。

話がそれたが一度リプルの門を叩いてみるといい、いつもニコニコ笑っている塩野谷氏が暖かく迎えてくれるはずだ、そして昔の長浜の話を聞かせてくれるだろう。おっとBEERとおつまみの差し入れを忘れないように。

http://www.ripple-sc.com/index.htm
2002/12/28(Sat) 11:57
ヨットレースと食事の考察
最近レーザーの公式戦に復帰して気がついたことがある。むかしリゲインが現役で出ていた関東選手権クラスのレースでは海上弁当があった。運営艇が配り始めるとそこに行列ができ、次々と弁当(ほとんど写真のようなおにぎりが主体)が手渡された。食べ終わると、また一列に並んでゴミを返した。最近レーザーもオリンピック種目になってからはレース運営の支障になるのであろうか、このような光景は目にすることはない、幸いレセプションは昔のままの乗りで行われる。

この文化だけは残してもらいたい。今年の全日本でも猛暑の芦屋では各艇が水を1リットルのペットボトルに2本くらい積んでいた、これを運営にレース中預ける、預からないでちょっとモメた。

納得のいかないトップ選手達は署名を集めて運営に抗議していた、トップ選手は海上でのんびり弁当なんてことはとても考えつかないのだろうか?

昔もレースはシビアだったが何かほのぼのとしたものがあった、こういう文化は大切にしたい。確かに運営は80個とか100個近い弁当を手配したり大変だが一日中海上にいる選手にとってはこの弁当がとてもとても楽しみだった。
2002/12/28(Sat) 12:29
フリートレース 1987年
レーザーフリートは誰にも媚びない、屈しない。仲良くセーリング?死ね、勝利以外の選択はない。

長浜フリートハウス(ハウスっていうほどのシロモロではない)に集う連中はいつもピリピリしていて普段は会話も少ない、しかしフリートレースが終ると様相は一転する、負けた奴の徹底攻撃が始まる。

1987年最後のフリートレース、フルメンバーに近かった、このレースはちゃんとトロフィーが3位まで用意された。終始トップに立ったリゲインは最終アプローチで致命的なミスを犯した。城内選手と相庭選手をカバーできたのにタイトカバーを嫌い、反対コースまでのばしてからルーズにカバーした。し・か・し右をのばした二艇にリフトブローが・・・・・

完全に前を切られ、結局優勝を逃がし2位になってしまった。フリートハウスでは得意満面の両人が待ち構えていた「あんなださいコースひくからさ」「まだまだ修行が足りないね」「基本的にヨットセンスないんじゃない?やめたら!」などど、おいおい俺は先輩をタイトカバーするのが嫌だったから遠慮したんだぜ・・・言ったら最後海に放り込まれるのは間違いないので唇をかみ締めて下をむくリゲインであった。

大掃除でカップを磨いていたら1987年長浜フリートレース2位というトロフィーがあったのでふとこのレース内容を思い出した。

皆さん今年は長浜に復帰できて本当に楽しい思い出がいっぱいできました、昔の仲間、そして新しい仲間 海の大切な仲間が増えたことに一年を振り返り感慨ひとしおです。

来年も長浜・三戸浜に栄光あれ。


室松 さとし Laser158897 Moth JPN1205
葉山セーリングカレッジ
http://www.sailco.com
2002/12/30(Mon) 19:29
GGM現る
レーザーフリートは来るものは拒まず、当然ながら去るものを追わない、しかしレーザーフリートに”入信”することは仲間との楽しいセーリングとの永久の別れであった。

いつしか海を眺める時もブローを探し、あそこでタックして云々などと勝手に頭に描いてしまう。街中で人とすれ違う時もミートをイメージし知らず知らず早足となり、見知らぬ通行人の前を横切り”勝った!!”・・・・・

レーザー長浜は当時、恐ろしい顔やごつい人間の集まりだった、ある日練習に品の良い男性が入っていた。まさか真剣にメンバーになるとは思わなかった。

狼の兄貴に尋ねた「兄貴、あれ誰?」「あれはよお、三戸浜の野郎だあ。」

三戸浜・・・・頭に浮かぶのはサーフサイドビレッジ、当時は宿泊もできて若いカップルがニャンニャンする場所、しかも結構高い。。

なんでまた三戸浜の人が。。。

その人はやがて奥義を披露しフリートメンバ−に溶け込んでゆく、それは・・・・「誉め殺し」しかもこれが本当に誉めているので誉められた方はついつい嬉しくなってしまう。

そして時は流れ15年の歳月を経て長浜に戻った僕は、猿の惑星状態。。真っ白になった白髪のGGMと再会しさっそく昔話で誉め殺しにあい死ぬほど得意になったリゲインは昨年2002年三戸浜・長浜杯に皆勤賞で参加したのであった。

皆が色々な事情で長浜を去った後、最後まで残り長浜フリートを存続させてくれたのはこのGGM。今やレーザー界でも逸材となっている。
ワールドを狙い、仕事も辞め彼女も放り出して練習に明けくれた15年前。太平洋選手権は2度代表となったが世界選手権には届かなかった。

もはやレーザーで世界を狙える歳は過ぎ、今度はモスとテーザーでワールドを狙いながらレーザーをライフスタイルにしてGGMをお手本に頑張りたい。

謹賀新年 2003 年頭のご挨拶

※写真は山口マスターズフリート紹介 長浜Fの紹介をするGGM。
 やはりお洒落なGGMはメンズクラブのモデルのようだ
2003/01/18(Sat) 09:21
ヨットレースは楽しめるか?
レーザーは素晴らしい、リゲインがレーザーを始めた頃は五輪種目ではなかった、ホッパーも国体とは無縁だった。ある程度乗りこなせるようになったセーラーが大会に出ることに制約はない。しかも同じ海面を五輪選手と一緒に走ることができる、他の種目で公式戦でこのようにトップクラスの選手と時間を共有できる競技が下の種目の中にいくつあるだろうか?

思いつくに自転車とマラソン位が誰でも制約なくトップ選手と一緒にスタートが切れる競技だと思う、トライアスロンは大会に出るためには厳しいメディカルチェックをパスしなくては出ることはできない。
普段酒を飲んで遊び歩いている輩は大会への入り口すら閉ざされている。他のチーム競技はチームが強くなくては一流選手とは戦えない、しかもサッカーなどはリーグ制であるから一般の選手がJリーグの選手と天皇杯で戦う為には相当強いチームでレギュラーで予選から勝ちあがらなければならない。

アーチェリー 
ウエイトリフティング 
サッカー 
自転車競技
射撃
柔道
水泳、飛込み
セーリング
ソフトボール
体操
卓球
テニス
トライアスロン
馬術
バドミントン
フェンシング
ボート
ボクシング
マラソン
野球
陸上競技
レスリング

我々は普段レースを楽しんでいるだろうか?

海にいることの素晴らしさトップクラスからビリまでが同じ時間を共有できる素晴らしい競技。

15年間ディンギ−レースから遠ざかり復帰したリゲインは最初の頃はとにかく海面にいるだけで嬉しかった。
ところが段々と勝てない自分にイライラしてヨットレースをエンジョイしなくなって来ていた。

今年はレースをエンジョイしようと思う、もちろん良い成績を取る為の努力は怠らないが・・・
2003/02/05(Wed) 23:40
16年の歳月を経て ミッドウイン...
この長浜の話の中でも中核となる1986MIDWINTER in 津から16年の歳月が流れていた、昨年のMWの時期にはまだテーザーで活動していたのでテーザーのMWに参加していた、そこはまったくの新天地であった。そしてその数ヶ月後レーザーになぜか復帰したリゲインは練習もそこそこに遠征をしまくっていた。16年間の失った時間を取り戻すことの方が重要だった。そして一年が過ぎまたMWがやって来た。

ビデオで見る16年前の自分はトップ集団を颯爽と回航していく、あの景色は忘れられない、フリーになると先行艇は数艇、後ろを振り向くと90艇を従えていた、今年のMWはどうなることやら、初日は希望がかない軽風から順風、、いける風である、この千載一遇のチャンスをコースミスでつぶしてドベに近いポジションになってしまった。昨年の関東選手権では軽風のレースで5位をとりポイントを稼いだ、しかし今回は得意なはずのコンディションで大失敗、、クラブに戻っても誰とも会話せず黙って家に帰りテレビも見ず、そのまま布団に入り天井を眺めていた。

言い訳はいくらでもある、年だから、バリバリの一軍ばかりなんだから、コースミスだから仕方ない、その言い訳で自分が納得できるならこのレースに参加した意味はない。そんなこと承知で参加しているのだから。。

また熱い遠征の一年の開幕である。ちょっと苦かったけどね。
連続3レース疲れたけどもう一レースならできたしやりたかった。

今年も11R連続の全日本に出ようと思う。そうそう新しいモスも手にいれたしモスの全日本も頑張らなくちゃ!
2003/03/07(Fri) 08:12
ジュニアもバリ一軍か?
娘が最近急に速くなった、そういえば一緒に海面で練習してコーチングをする機会が増えてきた。最初はトンチンカンなセーリングスタイルも結構さまになってきている。この前のノルウェーカップで初めて賞状をもらった次の週には名古屋に遠征して今度は盾をゲットして帰ってきた、それでも娘は平然として自慢もしない。
こいつ大物か?それとも単なる無欲な子供なのか?いずれにせよ親子で同じ趣味を持てるというのは良いものである、理想というけれどヨットのような特殊なスポーツを2代でやるのは大変だ。家族の理解と協力も必要になる。ワイフは今、4級船舶を取りに学校に行っている。もちろん娘のコーチボートを一人で出せるように自発的に行動を起こした、今や我が家は潮っ気たっぷりの湘南スタイルだ。
大分前だがHSCの紹介でフジテレビから出演依頼がきた。企画会議で没になったらしいがわざわざお台場のフジテレビまでインタビューに娘と一緒に出かけてカチカチになりながら番組ディレクターと打ち合わせをした。

番組名は忘れてしまったが親子で同じスポーツを楽しむ家族がテーマだったと記憶している。今日もHSCでは吉本芸人が参加してTV番組の収録中、このクラブはTVの取材が結構多い。

いずれは親子でハイスピードスキッフでカッ飛びたいと胸が躍る今日この頃である。そんな姿をTVで写して欲しいものだ。

成績表 江ノ島ジュニアヨットクラブ
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~e.y.c/ejyc/2003NFresults.html#OPB
2003/04/23(Wed) 23:37
親子で戻った長浜・三戸浜
しばらく書き込みをサボっていましたが、ここは大切なサイトなので継続して書き込んでいきたいと思います。
いつか娘を連れて行きたいと思っていた長浜海面で一緒にセーリングすることができました。この7月の5日6日、三戸浜のオーシャンビューヨットクラブにお世話になって親子で合宿をしました。娘は初日軽風で天気が良かったのでご機嫌で調子に乗って頑張りすぎたのでその夜 39度くらいの高熱を出してしまいました。
でも次の朝にはケロっとしてそそくさとドライに着替えて艇庫で艤装を始めました、やはりリゲインの血は争えないのでしょうか?

楽しかった合宿も終わりまた激務の毎日ですが、8月の初旬にまた今度はパパはソリング、娘はOPの合宿で諏訪湖にキャンプに行こうと思っています。家族でのキャンプとセーリングに湖はぴったり。楽しみです。

そろそろ本当の現役は引退して来年からはのんびりセーラーで気長にセーリングを楽しんで行こうと思っています。この二年は本当に仕事と遠征の繰り返しで正直疲れました。

これからはソリング、14、モス、フィン、スナイプ乗れる艇は全部乗ろうと思います。
2003/07/13(Sun) 00:31
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