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日韓親善レガッタ in ソウル |
何のきっかけだったか良く覚えていないが東京都ヨット連盟の佐藤会長と知り合い、オリンピック前夜の韓国に選手団を派遣するので来ないかという誘いを受けた。クラスはOPと470とレーザーを予定しているとのこと、たまたま東京都ヨット連盟主催のオープンレースで上位に入賞したのでこの話が来たのだと家の盾を見ると想像が着くがきっかけは忘れてしまった。ただ佐藤会長が「もう一人速い奴を連れて来てくれ」と言うので、迷わず桑原さんを誘った。
大会は漢口という河でのレースだった、流れているのである。しかも水は恐ろしく汚い。海でのレースしかも強風を期待していたが愕然とした、終始日本チームがトップを走ったがこの河で練習している韓国の選手に一本取られ、私は表彰台に上がるものの3位になってしまった、この時はえらく豪華なガラス製の綺麗なトロフィーを頂き、今でも大切に取ってある。 |
2002/09/10(Tue) 21:39 |
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一段落 そして 今後 |
ここまでの経過ですでに数年が経過した長浜の物語ですが、しばらくは私的な話題になってしまいました。昔のメンバー紹介やら出来事などを思い出しながら少しづつ書き加えて行きたいと思います。その後15年の歳月を経て長浜・三戸浜杯への復帰、レーザー公式レースへの復帰、リゲインを名乗るきっかけとなった連続遠征の物語など長浜メンバーとして活動を今後も記載したいと思います。その昔長浜に通っていた頃は日記をつけていました、今でもあの日記を探していますが出てきません。地下室を掃除すれば出てくるかも知れないので、今年の年末の掃除は真剣にやります。
ディンギ−をやる為、年齢の克服の為、かなりハードなトレーニングとカロリーコントロールをした結果、リゲインが誕生しました。
15年前ほどの体重はありませんが体力は昔とそんなに変わらないように思います。
最後に自分でHPを作ることができない私に貴重なスペースを提供してくれたmuraさんに感謝します。
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写真は今年の夏、ディンギー以外での活動 PLATUのヘルムで大島まで遠征したTokyo`s
Cupの一コマです、ライフラインもないインショアレーサーなのでいくら大島が近いとはいえ苦労の連続でした。 |
2002/09/10(Tue) 22:21 |
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きゃびん夜話(クルーザへの憧憬) |
昔から舵を愛読されている方は田辺
英蔵氏が連載していたきゃびん夜話をご存知だと思う。毎号あのコラムを楽しみにしていた。典型的なブルーウォーター派のクルーザーのお話だがたまにレーサーの話も出てきて面白かった。当然ながらそのボートデザインからいってレーサーに私が憧れるのは時間の問題だった。長浜でディンギーを始めてからもクルーザーにも同時に強い興味を持っていた。長浜がシーボニアや三崎マリン、小網代などに面していたこともあり沖でクルーザとすれ違うことも多かった。きゃびん夜話に登場する艇などとすれ違った時はときめいたものだ。当時は良くディンギーでセーリングしたあとシーボニアにクルーザを見に行った、その当時は「スーパーサンバード」「ゼロ」「ロシナンテ」「ビッグアップル」などの大型艇が当時のAバースに舫ってあり、ラットなどをいじりながらいつかはこんな艇に乗りたい(買えるわけない)と思っていた。そして長浜から遠ざかった僕は数年後にIORレーサーの世界に足を踏み入れた。そして現在もディンギーと並行してBigAppleVのクルーを務めている。(最近はディンギーでさぼり気味)
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2002/09/11(Wed) 20:53 |
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ケンウッドへの道 |
長浜でのレーザーの活動から現在までの間のヨット活動にも少し触れておきたいと思います。しばらく酒飲みクルーザでクルージングを主体に活動をしていたがレーザーセーラーの体質に合うわけがない。人から凄いと思われたいというモチベーションが当時のIORレーサーの活動に僕を引き込んだ。目標はKENWOODCUP、当時新艇をフランクリンに発注していたNINJAチームに目をつけ、さっそくクルーとして活動した、日本人クルーは20名、本戦まで残ったメンバーは僕を入れて5名だった。1990年のケンウッドに参加してIORディビジョンDクラスで準優勝したがオーナは優勝を逃したクルーには不満だったようだ。
この時のヘルムスは前回マキシボート「ウィンドワード・パッセージ」を優勝に導いたフレーザーセールの社長、ボブ・フレーザだった、クルーの半数はオージーとキウイのクルーで固められ、アリカの鳴海さん、デザイナーの木原さん フレーザージャパンの長谷川さん等いわゆる職業ヨットの人に加えて最後まで残った我々とソリングの小河原さんが乗ることになった。ハワイではIORのレギュレーションによる体重制限の為、過酷な減量を強いられ、ハワイにいた一ヶ月の間で9kgの減量となった。その状態での強風でのレースのクルーワークとハーバーに戻ってからの艇の整備に明け暮れシリーズが終る頃にはIORが嫌いになっていた、そしてこの時テイラーで乗っていたソリングの小河原さんと仲良くなりJ/24「バトラー」での3年間が始まるのであった。
※ 写真隣はBob
Fraser、後ろの金髪の大男はAUSでは有名なセーラー、Toby・Richardson,Ausのディフェンダ-艇「クッカバラ」のマストチューニングは彼が行った。隣のサングラスは後のNZのACのバウマン、Kevin
Battern。 |
2002/09/12(Thu) 00:32 |
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長浜沖 ワンデザイン |
J24にはワンデザインというレーザ−との共通点があった、ただしマストがどこ製だとかといった多少のチューニングの違いはレース成績に影響した、しかし基本は個人の受け持つ仕事量が多いレーサーでクルーワークが決め手の艇だった。小河原さん その体格は130kgという大柄でソリングで小松選手のクルーをしていただけあって気性も激しかった、艇上では絶えずクルーに情報を求めてきた。レーザーセーラーの私はそんなの自分で見ろというような事が多かったので黙っていてよく「むーろちゃん!!どっちがいいんだ??右の艇はどうなってる?左海面は?どっちなんだよー!」「落ち着いて舵に集中しなよ!!」なんて喧嘩をよくしていたが基本的には仲が良いチームだったと思う。長浜沖で練習をしていたのでレーザーを遠目に見て、ああ桑原さんかな?とか斎藤さんかな?とか思って見ていた、すると「むーろちゃん!!よそ見してないでコースみてくれよ!!」佐島で行われたJ24の全日本マッチレースに参加した時もクルーで乗ったが4名のマッチレースクルーワークは大変だった、この時の面子はすごかった
5艇のラウンドロビンだったが高木裕 ニッチャレの兵藤、二ノ宮さん、そして小河原艇、そして甲斐幸の5艇で優勝を競った。我々は甲斐艇には勝ったがブービーだった。こんな活動が約3年続き後のBigAppleVに乗るまでに数年間のお休みとなるこの間に僕は結婚して、娘のパパとなり仕事もまじめにして偉くなった。そしてまたディンギ−戻り症候群にかかり会社からも家族からも見放されそうな今日この頃である。。
※写真はJ24の写真が見当たらないのでイメージです。 |
2002/09/12(Thu) 01:11 |
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天才セーラー 斎藤 隆士 |
彼はいつも薄ら笑いを浮かべ沖に向かって出て行った、すれ違うセーラー達はこの裸足のセーラーの実力を知らない。西宮全日本選手権。180艇の大フリートでの大会となった、彼はこのレースで9位をとった、彼は風見もテルテールもつけずにセーリングしていたが抜群に速かった。それは天性の勘と言う人が多かったが長浜フリートのメンバーは彼が艇のボトムが磨り減るまで毎朝練習をしていたのを知っている。その後はホビーでその実力を発揮、長浜フリートの工藤さんとコンビを組んで三戸浜で活躍した。その工藤さんの艇111508が私の艇となりしばらくはこの艇でレース活動を行うことになった。斎藤さんは長浜フリートのレディースセーラーの石井寸美代と結婚した、彼女は結婚を期にレーザーから降りたが当時は上手い女性セーラーで男を負かすことも良くあった。
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新郎新婦はレーザーセーラー |
2002/09/16(Mon) 20:44 |
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長浜フリート 人名録 |
さあ、斎藤選手をはじめとして私が当時お世話になった、皆さんをシリーズでご紹介します、若干ストーリに花を添える為、誇張した表現があるかも知れません、また面白く読んでいただくために時には失敬な表現もあるやも知れませんが、該当者の方、「これは事実無根だ!絶対に許せん!」といったクレームがありましたら、長浜・三戸浜杯にご参加頂ければその際にお叱りを受けますのであしからず。
当時の皆さんの写真がなく、掲載できません、もしこの勇姿を載せてくれという該当者がいられましたら・・
〒240-0112 三浦郡葉山町堀内923-3 室松 さとし宛 もしくはデータであればsmuromat@alto.ocn.ne.jpまでお送り下さい、編集し直します。 |
2002/09/21(Sat) 08:12 |
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癒し系 納富 希志夫 |
当時の長浜フリートは新撰組状態で敗者には優しくなかった、レディースまでもがである。当初レースたびに惨敗して失意の中フリートに帰ってくると「どうせ良くなかったんだろうけど、後ろから何位?」なんていきなり奈落の底に突き落とされるような質問が飛んできた。
当時はインターネットなどないし、成績が公になるのは舵やレーザーニュースのタイミングまでずれるので一ヶ月くらいあとになってからである。僕はそれまでは長浜の岩陰でほとぼりがさめるのを待ちたかったが、何よりも悔しかったので練習に行くのであった。
納富さん それは長浜フリートでの僕の心のよりどころであった。「仕方ないですよ、一緒に練習しましょう!」みたいに暖かい言葉をかけてくれた。
彼は置き場もフリートではなく潮美亭近くの嘉山邸の庭先のヨット置き場にレーザーを置いていた。そのヨットスタイルは黒い渋いウェットに色あせた黄色いライジャケでどんなに遠くからでもすぐに彼と分かった。
彼も強風セーラーで8m位の風が一番得意ですごく速かったが当時の選手権では強者が多かったので、なかなかシングルを取ることができなく悔しい思いをしていたようだ。
納富さんは転勤で福岡フリートに移り、今は仕事の関係で広島でレーザに乗っている、ラジアルでは常連なので近いうちまた同じ海面をレーザーで走りたい |
2002/09/21(Sat) 08:15 |
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あめんぼう 城内 勝男 |
軽風が得意?どこにでもそんなセーラーがいる、当時のレーザーシーンでも軽風だと皆が嫌がるセーラーがいた、その代表格がまだまだ現役の二井選手だった、皆が止まっているのになぜかスイ〜っと前に出て行くのであった。
長浜にもそんなセーラーがいたその名は「城内 勝男」。といってもサザエさんに出てくるようなカツオではない。
彼も体は小さく、今でいえば榮楽選手のような感じである。その小さい体で強風の時も歯を食いしばって頑張ってハイクアウトしていた。
当時はまだウェイトがクラスルールでOKだったので470で11kgレーザーで7kgまで背負うことができた、当時は皆水タンクを前後に入れるタイプを使っていて前と後ろに一本づつ入れると丁度良かったが良く
この水タンクは激しいセーリングで破裂した。こうなるとせっかく重りの意味が無い。水タンクは落水しても海水と水の違いはあるが比重がほぼ同じなので沈む心配がない。
しかし軽量のこのセーラーは考えた、「水タンクでは破れたら意味が無い」 彼は砂のタンクを背負っていた・・・・・
そして軽風の時はあめんぼうのようにスイスイと皆を抜いていった、レーザーの公式レガッタでもシングルセーラーであった。今は彼の一番と書いたレーザーがフリートで静かに彼の来るのを待っている。 |
2002/09/21(Sat) 08:18 |
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筆頭家老 相庭 孝雄 |
相庭さん、当時の長浜では最古参のセーラーであった。しかしセーリング自体は決して若者に負けるようなものではなかった。
当時長浜には「アビア」という名前の小さなモーターボートがあった、小さいが一応格好は大型のクルーザを子供にしたようなデザインでちゃんとハンドルがついていた。この船を使ってよくフリートレースなどの運営を積極的に行ってくれたのが相庭さんである。
長浜フリートは強い個性のデパートみたいなフリートで相庭さんもご意見番として皆から恐れられていた。しかし対外的には彼のような強い意見が主張できないとレーザーのフリート運営は困難だった、狼谷の兄貴もしかりである。
長浜が主催で関東選手権を受ける時も結構な議論となり皆で何回も話あった、ワールドクオリファイがかかった大切なレース、ちゃんと運営しなくてはならない、しかし長浜フリートのメンバーは仕事上、忙しい人が多くヨット運営に専念するのは困難だった。結局近隣フリートの応援を受けて長浜での関東選手権は成功させることができた。
優勝は高沢 孝吉 フィンで五輪を目指していた時であった。<br>
この時のレセプションは城ヶ島の城内さんの親戚の旅館で豪勢に行い参加選手から絶賛された。
相庭さんはいつもこんな活動を見えないところでしっかりと支えていてくれた。 |
2002/09/21(Sat) 08:25 |
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若大将 内藤 太郎 |
今でも皆さん良くご存知の太郎さん、80780そのセールナンバーは今も同じで懐かしい。
当時の長浜で太郎さんは若大将的な存在だった、女性セーラーには人気があった。材木座の一柳選手と共通するものがあるかも知れない(一柳さん元気かな?)
太郎さんはオールラウンドで軽風でも強風でも速かった。僕はついていくのがやっとだった。そしてガムのコマーシャルのように歯が光りそうな笑顔で実に楽しそうにセーリングをした。
しかーし、太郎さんも結婚を期に少しセーリングから遠ざかるようになり、我々のようなクレージーなセーリングとは一線を画すようになった。それでもセーリングに対する情熱は人一倍強く、今でも長浜・三戸浜杯で楽しくセーリングをしている。
ビッグボートのレースで島で会うこともたまにあり、いつも昔の事を熱く語る太郎さんはまさにレーザー長浜フリートが誇る若大将である。
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2002/09/21(Sat) 08:28 |
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元祖鉄人 桑原 広実 |
この人のことを紹介しないと長浜のことは語れない、最初恐そうなイメージがあった桑原さんは実はシャイで人見知りをするだけで、実はすごく親切で質問するとなんでも教えてくれた。
当時は長浜で色が褪せて赤だったんだろうなあ・・・というようなムスト-のライジャケを着てすごいロールタックを決めていた桑原さんは僕等シーホッパーセーラーにとっては新撰組というよりは宮本武蔵的な存在であった。
そんな桑原さんと一緒にレースを初め、あちこちに遠征した。練習が好きだった、だから長浜で一人で練習している時でもきっと来るに違いないと思っていた、当時は明日の予定など確認はしなかった、フリート小屋で紫のカラーセールが風になびきだすのを沖から見て気持ちが明るくなったものだ。
一回だけ桑原さんの家に遊びに行ったことがある、当時でも電話はデジタルでプッシュホンが主体だったが黒電話が部屋にあった(渋い!)
圧巻はトロフィー部屋、なんと一部屋がトロフィーやらカップで埋まっていた、しかもトロフィーはプロレスなんかで見るような1m位はありそうなでかい奴ばかり。桑原さんはベンチプレスでも全日本の2位の実力で五輪候補にも入っていたそうである。そんな中に小さく控えめなレーザーキューブがさりげなく置いてあった。
”気は優しくて力持ち”そんな言葉がぴったりの現フリートキャプテン 桑原さんである。
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2002/09/22(Sun) 13:08 |
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サンダ対ガイラ |
当時、長浜のYSAでホッパーで熱心に活動していたのが、市川さん(カクモトさんとも名乗っていた)だった。
彼は非常に気が強く、負けず嫌いだった、ある日のフリートレース、レーザー界でも知る人ぞ知る気の強い女性セーラー 大矢さんが長浜のレースに遊びにきていた、スタート前の上下のケースなのだろうか、最初のレースが終ってから市川艇に近づき「アンタ!ルール守んなさいよ!!」「何だと!!」「ルール知らないの!!」「うるせえ!!ふさけんじゃねえ!!」・・・・・なんか凄いことになってきました。
周囲の艇は皆固唾を飲んで見守ってます。。。大矢さん少しも動じず「そういう台詞はアタシに走り勝ってからいいなさいよ、ボケ!!」
当時の女性セーラーには豪傑が多かったのは事実です。。名前は控えますが。。。 |
2002/09/28(Sat) 11:46 |
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乱闘事件 ミッドウィンターin 江ノ島 |
その事件は真冬の江ノ島で起きた、スタート前のミッドウィンターだったそうな。。
当事者の一名は現長浜フリートキャップ、桑原選手
そしてもう一名この時は結果的には被害者であった材木座F
林選手、激しいポジション争いをしていた2艇はもはや古代ギリシャの戦士と化していたそうな。。
そしてもつれあった2艇は沈、普通の場合はこれで済む、しかしこの2艇はそうはいかなかったようである、どこがどうからんだのか分からないが林選手のブームが折れてしまった。
考えて欲しい。。当時の林選手とスタート前にからみあって彼のブームを折った!!・・・・想像しただけで恐い・・・・
しかしこの戦士たちはその後良き強風ライバルとなった、このレースがそのきっかけだったのかも知れない。。
ある時レーザーニュースで桑原さんが全日本3位のコメントで「2年以内に林選手は倒せる」とコメントしたのがキッカケとなり、林選手は猛烈に桑原選手を意識し出した、、仮にも全日本3位の選手が「お前はすでに死んでいる」と北斗の拳のような台詞をレーザーニュースではいたのである。
レースが終わる度に桑原さんのところに来て睨みをきかせながら「今日はまあまあじゃねえか」・・・・
場外バトルも恐いお二人でした。。 |
2002/09/30(Mon) 20:21 |
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Hな全日本 |
それは1984年の全日本、僕にとっては初めての全日本遠征。愛知県知多半島 河和での大会。
この大会は微風シリーズだった、イライラするレース展開だったのは事実だが●●選手(本人の名誉のためヒントも与えません)は煩悩の塊と化していた。
こともあろうに知多半島にあろう筈もない石鹸王国に行こうと夜大会会場を抜け出したのである、案の定畑しかない知多半島の端であたりをキョロキョロしながら爆走していた彼の車は警察の御用となり、あえなく彼の石鹸王国への献金は日本政府に献金されたそうだ。
この大会SWEの女王、マリット・ソダーストロームが招待選手で参加していた。大谷さんも彼女の手前真剣に走ってこの大会2位だった。
優勝は下関F(現山口F)の内藤 幸一郎選手、150艇もの大フリートのレース、初めてのゲートスタート、ワールドチャンピオンの下からのスタート等等、僕は別の意味で興奮していたが、彼も別の意味で興奮していたようだ。
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2002/09/30(Mon) 23:16 |
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オープンヨットレース |
当時はオープンレースが盛んだった、ネプチューンや全日本オープンとか、江ノ島でのオープンレースは賞品も良いので賞品狙いで良く遠征をした。レーザーの選手権と異なり、誰かと一緒でないと艇の積み下ろしに不自由だ。そこで僕は毎回桑原さんを誘って参加したが、今から考えれば何も優勝候補をあえて誘う必要があったのだろうか?
結論はノーである、自分より確実に下手で力だけある奴がベストである。自宅に並ぶ2位のトロフィーがむなしい、なんでこうも見事に2位、3位のトロフィーばかりなんだろう・・・常に僕の上に桑原さんがいた。
1987年のネプチューン、第一上をダントツで回航、桑原さんは僕が上〜サイドを半分くらい走ったところで上を回ってきた。「やった!余裕じゃん・・」しかし・・・突然風がピタリとやんだ、、、(汗)
後ろを見るとブローに乗って凄い形相で桑原さんがカッ飛んできて、上を突破していった。最後のフィニッシュまでの上りは風があがり桑原さんは「室松遅いぜ!はっはっは!!」と高笑いとロッキングを繰り返し、ガンガンクローズで上っていった。
誘わなければ良かった、、、ちくしょう・・・それでも2位のカップは予想外に大きかったのでなんとか自分を納得させた。。レースの賞品はやはりアカデミックなものが嬉しい。
今は草レースと称している長浜・三戸浜杯、回を重ねることに参加艇も増え参加者もバラエティに富んできている、ちょっとすればきっとエントリが50艇なんてのも夢ではない。
持ち回りのカップは大きくて良いが5位くらいまでには手製でもいいので何か記念になりそうなものを賞品でもらいたい。レーザーキューブに対抗して長浜ボールなんてのはどうだろう、ドラゴンボールみたいで格好いいじゃないか。 |
2002/10/01(Tue) 23:17 |
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リゲインジュニア |
ちょっと話題を現代に移し、リゲインジュニアをご紹介します。親バカではありません・・・でも彼女のヨットライフは確実に贅沢です。確実に父よりはリッチ。今年もモビーのドライをさっそく買ってもらいました、父は昨冬はロングジョンでむきだしの肩で寒さをこらえていました。たぶん今年もきっとそうです・・・セールもレース前にはバリセールを新調です、僕は全日本参加用すら却下でした。。
彼女はOPセーラー、まだ初めて一年、かの江ノ島ジュニア37期生でしたが今は地元葉山のクラブで活動しています。今は同じ森戸海面で練習をしているので毎週末、海上で会います。
今年はいくつかの公式選手権デビューをしましたが、だいぶ上手くなってきました、最近ロールタックを覚えたと自慢しています。
親と子の間でこういった関係を維持できるのもヨットの素晴らしいところだと思います。特に女の子は思春期がありますのでここでヨットがどれくらい助けになるか父としては期待しています。
そしていつか彼女がレーザーに乗り、長浜・三戸浜杯に親子で参加するのが夢です。その時はたぶん第33回大会あたりかな。
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2002/10/03(Thu) 17:12 |
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